《いじめをしない子の育て方》

《いじめをしない子の育て方》

《いじめをしない子の育て方》 画像

《いじめをしない子の育て方》
ハッピーな伝言板 2022年7月号

前号で述べた、「いじめへの対処法」も必要ですが、それ以上に心掛けたいのが「人をいじめない子を育てる」ことではないでしょうか。私の知る限りでは、まだそうしたテーマでのアドバイスや提案はなされていないような気がします。それ故、これから述べることが「これが正解です」と断言できるものではないことを最初に申し上げておきます。半世紀以上、子どもに関わる仕事をしている上で「より健全な子ども社会の創造」への一提案になればと私案を述べます。
まず、私はいじめをする子が育つ最も大きな要因は「家庭環境」だと考えています。いじめ問題が取り上げられる度に「なぜ、教師が気付かなかったのか」と教師を責め、気付かないことに責任があるような対応がなされていますが、それはどうかと思います。家庭内の諸々の環境の中でいじめをする子どもが育ち、その「実行の場が学校(集団)」になっていることは誰もが気付いていることではないでしょうか。もちろん、学校側が何もしなくてもいいということではありませんが、いじめをする方が、見つからないようにやっていることもあります。いじめを見つけられなかったからとか、対応が不十分だったからと教師を責めても問題の解決にはなりません。
「望ましい子育ての環境」は、家庭教育だけの問題ではなく、大小の差はあれ学校教育や社会教育のあり方にも目を向けるべきと考えていますが、子どもにとって「より望ましい環境」をつくるには、まず家庭教育です。そして学校教育、社会教育という二つの教育の場が揃ってこそ、子育てのしっかりとした「三本柱が揃い」、望ましい教育環境が整うことになります。

1.家庭教育

家庭教育の指導者が両親であることはいうまでもありません。オギャーと産声を上げてからミルクを与え、ハイハイ、立てば歩けとあらゆる育児行為を行い、幼稚園に通わせ、小学校に入学させて来たはずです。
しかし、何時からかどう道を踏み外したのか家庭教育として親がすることは、子どもにテストで高い点を取れるよう塾に行かせ、水泳を習わせ、絵画教室や音楽教室、英語教室に行くための「お金を出すことが親の役目」になっているのではないでしょうか。
家庭教育の根本は、何にもまさる親の「愛情」であり、「信頼」、「尊敬」の心を育むことです。どんなに困ってもどんなに悲しいことがあってもいつも親が子を見守り、支援し、惜しみない愛情を注ぐべきです。
例えば、隣の子が100点を取ってわが子は60点であっても「よそはよそ、うちはうち、お母さんはあなたが一番好きですよ」とハグをすれば親の限りない「愛とぬくもり」が伝わります。雨の日も風の日も仕事に出かけ、一生懸命仕事をする親の後ろ姿が子どもに「尊敬心」を植え付けます。子どもがふざけっこをして、よその窓ガラスを割るようなことをした時でも「うちの子は悪くない」とか「よその子がやったんじゃないか?」などといわず、「申しわけありません」ときちんとあやまってくれる親の態度は、子どもにはいかに「自分が信頼されているかの証」となります。「信頼感の強さ」を身をもって知ることになると思います。
子どもを中心に考えると本人が「第一人称」で、親兄弟は「第二人称」、教師や他の人は「第三人称」です。いじめが起こす様々な不登校や自殺など子どもの根幹にかかわる問題を第三者に責任を問うことはいかがなものかと思います。

2.学校教育

昔はどこの学校にもあった二宮金次郎の銅像は今はありませんが、確かなことは子ども時代は勉強をすべきです。ただし、勉強するのは「高い点数を取るため」ではなく、教師の話しを聞く態度や知識や考え方の違いを知ることのできる本を読み、算数で計算力をつけ、理科、社会、歴史などについて学び、知り、興味を持つことがいいと思います。それに加え、個々の子どもが持つ好奇心や個性が独自の解釈をし、自分なりの知識として心身に蓄えていく場が学校教育の場としての役割の一部ではないでしょうか。

ところが、現実は、どんな科目でも「高い点数を取った者がいい子」という傾向はないでしょうか。運動会でかけっこが速ければ褒められ、絵がうまいといって壁に貼られ、楽器の演奏がうまいと褒められます。
しかし、学校教育の根本は、知ることや学ぶこと、集団生活の中で他者との協調性を養う、一緒にゲームやボール遊びをしてカラダを動かすことの楽しさや習慣を身につけることなどです。運動で野球をすれば強いボールを投げられるとか、サッカーでゴールにボールを蹴るのがうまいことでもてはやされることが体育でもありません。スポーツが好きだったり、上手になりたい人はスポーツクラブに行くことです。勉強でも運動でも「学校はみんなが平等」に学び、体験し、知識をつけることです。余談ですが、学校のクラブ活動で地域や全国大会で優勝してもそんなことは大したことではありません。まして校舎の壁に垂れ幕を掲げるなど愚の骨頂です。
学校は、できるだけ生徒全員が仲良く遊び、接することで人間関係の大切さと素晴らしさを学び、体験するところです。

3.社会教育

今ではほとんどが内風呂ですが、昔は、銭湯に行くと恐いおじさんがいて熱い風呂にも我慢して入らされたという話がありました。熱い風呂に入るのがいいとは思いませんが、これが「社会教育」ではないかと思います。
家や学校では許されること、正しかったことが許されない、通用しないことを知るところが「社会教育」だと思うのです。自宅では「良いこと」とされていても社会教育の場では、通用しないばかりか、叱られたりする。
つまり、家庭や学校では「正しいことはひとつ」だったのに社会教育では、「正しいことは人数分ある」ということになります。それを子ども時代に全て知ることはできませんが、電車に乗って騒いだり、靴のまま椅子に乗って窓の外を見ると注意されます。

つまり、社会教育は、何が正しいかではなく「違い」があることを学んでもらう現場です。
「違いがあることを知る」と理不尽を感じますが、家庭を持っても会社勤めをしても違いがある中で毎日が存在し、続きます。社会教育とは、そうした違いに接し、「人は千差万別」なのだという「他者の認識力と認める力」を養い、身に付けるところです。

 

「いじめ問題の解決」には、様々な問題をクリアしなければなりませんが、完全になくすことは無理でしょう。しかし、もう少し自分だけでなく「他者の認識能力向上」にも目を向けることでいじめが軽く、短期に収まる、わが子がいじめをしないなどが増えるようになればいいように思いますが、いかかでしょうか。

まっく体操クラブ代表 向井忠義

紙面でお読みになりたい方はこちらからどうぞ ⇒ 2022年7月号

※当サイト内のすべての絵や文の転載はご遠慮ください。

一覧へ戻る

上へ↑